枝の先に花が咲く。
出国291日目。
28カ国目のザンビアのリビングストンにいます。
なんとなく訪れたその国は、バスもきれいで、道も整備されていて、
最貧国のひとつとされているザンビアのイメージとはかけはなれていて、
ひとつにここがヴィクトリアの滝への窓口になってるってのもあるんやろうけど、
それでも思ったより都会でびっくりした。
で、そのヴィクトリアの滝。
ザンビアとジンバブエの国境にある世界遺産にも指定されている滝で、世界三大瀑布のひとつ。
さすが。これで増水期じゃないねんからすごいと思う。
これだけずっと水が流れ落ちながらそれでも全くその流れが尽きる様子がなくて、
ずーっと前に、地球上の表面積の70%は水です、って習ったのを思いだした。
ゆるりとすごしてなんだかんだ夕方まで。
で、満月の日は夜も入場できるんだよー、って噂があって。
しかも夜は満月の光で虹がみえる、なんてモテそうすぎる噂もあわせて聞いてて。
そのまま夜も滝を見ることに。
さすがに月の光で虹が見えるってのは言い過ぎやろーと思いながら、
でも夜の滝って行ったことないし、なんかいいなーってぼんやりしてたら。
見えた。なにこれ。すごい。
満月の夜に月明かりで滝に虹がかかる。
なんて物語みたいなことがほんとにあるってなにこの世界。めっちゃいい。
虹が見える条件として、光源・プリズムとなる水滴・観察者、の3つがあればいい、
ってのは頭ではわかってるけど、それでもやっぱりすごいなと思ったし、
幻想的すぎて心がどんと奪われた。
明るい光が水滴の中で屈折・反射し、屈折角の違いによって様々な色に分解される。
その分散された光のスペクトルが虹として僕達の目に映っていて。
あー光ってこんなにいろんな色を含んでたのかって思った。
毎日もきっと同じなんやろな。
今日は悲しい日、明日は楽しい日、そういうふうに単色の光として存在するのではなくて、
いろいろな感情がごちゃまぜになったそれが集まってひとつの光のように見えていて。
だから、細かい感情の集合体としてではなく、
どっちかっていうと元気とか、今日はちょっとよくないかも、
みたいな感じで僕らはそれを混合物として判断していて。
でもやっぱり、ほんとはひとつひとついろいろな物事があって、いろいろな感情があって。
光、としてまとめてしまうのは、なんだかもったいない気がして、
ふと、糸井重里さんの言葉を思いだした。
「人はきっとまだら状に考えるのであって、そのまだらは、混ぜないまま記録しないと、間違えると思うんですよ。
—〈中略〉—
それは、ミックスフルーツのジュースじゃなくて、ミックスフルーツのままでかごに盛る必要があります。そこからぼくらは頭の中を自分で整理しなきゃいけないんです。」
混ぜてしまったほうが簡単に飲み込めるようなこととか考えやすくなることもあって、
もちろんそうしないと進めないような時だってあるとは思うけど、
でもやっぱり、どちらかというと、そうだからこそ、ひとつひとつをしっかり捉えていきたいと思った。
僕達はあらすじを語るために生きている訳ではなくて、
だからそこには本筋に関係ないような出来事もたくさんあって、
そしてそういうこと全部を含めての物語があって。
きっとそういう物語を面倒くさがらずに一文字一文字読み進めたその先に、
僕がつかまえたいと思っている読後感はあるんじゃないかなって。
枝の先に花が咲く、みたいな、そんなイメージ。
日常という光源があって、それを感じ取る自分という観測者がいる。
だからあとはプリズムとなる水滴があれば、その光をカラフルな虹として僕らは見ることができるんだけれど。
その水滴を準備するのは、すごく簡単なことなんじゃないかな。
だって、地球上の表面積の70%は水って習ったしな。