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アフリカ縦断を終えて思うこと。
出国316日目。
アフリカ縦断を終えたので、どどんとアフリカ振り返り。
コーヒーでも飲みながら、ゆっくりと。
4ヶ月前まで巻き戻して、再生ボタンを。
はじまりの国エジプトではピラミッドやアブシンベル宮殿の壮大さにずっと驚いてた。
スーダンでは、人の優しさや、走り回る子供に心が和んでほっとして。
エチオピアではダナキルに民族巡りにずっとどきどきしてた。
ケニアではサファリでキリンやライオンにわくわくして。
ウガンダでゆるりとテント生活をして、
ルワンダでは知らないといけないという気持ちにひっぱられた。
タンザニアのザンジバル島もキリマンジャロも最高に気持ちよかったな。
マラウイはこれまで訪れた国のなかで一番好き。何もなくてあたたかい場所。
ザンビアでは月の光で虹が見える、物語のような現実に胸がどんってなった。
ボツワナでは、テントの横を走るイノシシに癒されて。
ナミビアではレンタカーで、サファリも砂漠も花も星も。
南アフリカは便利さと自然のバランスが程よくて、喜望峰についたときはやっぱり嬉しかった。
アフリカほんとに楽しかった。
自然も人も、ほんとに素敵で。危機感も安堵感もたくさんあって。喜怒哀楽に溢れていて。
アフリカでは、かっこよく、さらりと生きる。なんて全然出来なくて。
溺れないようにずっともがきながら、だからこそ、考えることができたことも、感じることができたこともあって。
便利さや快適さはなかったけれど、その逃げ場のない場所が時間が、ほんとによかった。
国境を越えるたびに知らない世界がひろがって、
知らない世界には、知らないことがいっぱいで。
バンジージャンプのときみたく、胸が騒いで足がすくんで、それでもやっぱり飛びたくて。
ほんとにそんな毎日やったな。すっごい楽しかった。
僕が持ち合わせている当たり前は、知らない世界では当たり前じゃなくて。
自分の中に、ものさしを持っているっていうのはとても大切なことだけれど、
時にそれではかれないような、はかってはいけないような事もいっぱいあるっていうのは、
きっと忘れてはいけないんだと思う。
善意だけでなく悪意が転がっていることも受け入れながら、
信じたいものを信じる、なんて安易な逃げ方はやめる。
向かい合わないと何も見えなくて、
でも向かい合えば何もかも見えるってわけでもなくて。
今、しっかり考える。丁寧に話して、丁寧に聞く。
この4ヶ月で、知らない世界を走りながら考えた、知らない世界の走り方。
10000kmを走り終えて一番強く思うのは、
僕は人が、人の人らしいところが、好きやなってこと。
何かを守れなくて、悲しむ人がいて。
何かを手に入れるために、怒る人がいて。
何もなくても、笑える人がいる。
自分に、他人に、振り回されながら、
それでもその手を離さない覚悟をもっている人が、人らしさが、僕はとても好き。
時にそんな人らしさに、声を荒げることも、深く傷つくこともあるけれど。
それでもやっぱり僕は、人が人らしくいる世界がとても好き。
と、ここで再び、一時停止。
さてと、とコーヒーを置きながら、手にはリモコン。
爆笑問題の太田光が言っていた言葉を思いだす。
「未来はいつも面白い。」
ずっと楽しみにしていたアフリカ縦断という未来は、思った通りに面白くて。
いまちょうど目の前に広がるのは、中南米。1年後の帰国とそこからはじまる日本での生活。
早送りするにはもったいないし、コマ送りするには待ち遠しい。
結局、やっぱり、再生ボタンを。
うん、楽しみ、未来。
枝の先に花が咲く。
出国291日目。
28カ国目のザンビアのリビングストンにいます。
なんとなく訪れたその国は、バスもきれいで、道も整備されていて、
最貧国のひとつとされているザンビアのイメージとはかけはなれていて、
ひとつにここがヴィクトリアの滝への窓口になってるってのもあるんやろうけど、
それでも思ったより都会でびっくりした。
で、そのヴィクトリアの滝。
ザンビアとジンバブエの国境にある世界遺産にも指定されている滝で、世界三大瀑布のひとつ。
さすが。これで増水期じゃないねんからすごいと思う。
これだけずっと水が流れ落ちながらそれでも全くその流れが尽きる様子がなくて、
ずーっと前に、地球上の表面積の70%は水です、って習ったのを思いだした。
ゆるりとすごしてなんだかんだ夕方まで。
で、満月の日は夜も入場できるんだよー、って噂があって。
しかも夜は満月の光で虹がみえる、なんてモテそうすぎる噂もあわせて聞いてて。
そのまま夜も滝を見ることに。
さすがに月の光で虹が見えるってのは言い過ぎやろーと思いながら、
でも夜の滝って行ったことないし、なんかいいなーってぼんやりしてたら。
見えた。なにこれ。すごい。
満月の夜に月明かりで滝に虹がかかる。
なんて物語みたいなことがほんとにあるってなにこの世界。めっちゃいい。
虹が見える条件として、光源・プリズムとなる水滴・観察者、の3つがあればいい、
ってのは頭ではわかってるけど、それでもやっぱりすごいなと思ったし、
幻想的すぎて心がどんと奪われた。
明るい光が水滴の中で屈折・反射し、屈折角の違いによって様々な色に分解される。
その分散された光のスペクトルが虹として僕達の目に映っていて。
あー光ってこんなにいろんな色を含んでたのかって思った。
毎日もきっと同じなんやろな。
今日は悲しい日、明日は楽しい日、そういうふうに単色の光として存在するのではなくて、
いろいろな感情がごちゃまぜになったそれが集まってひとつの光のように見えていて。
だから、細かい感情の集合体としてではなく、
どっちかっていうと元気とか、今日はちょっとよくないかも、
みたいな感じで僕らはそれを混合物として判断していて。
でもやっぱり、ほんとはひとつひとついろいろな物事があって、いろいろな感情があって。
光、としてまとめてしまうのは、なんだかもったいない気がして、
ふと、糸井重里さんの言葉を思いだした。
「人はきっとまだら状に考えるのであって、そのまだらは、混ぜないまま記録しないと、間違えると思うんですよ。
—〈中略〉—
それは、ミックスフルーツのジュースじゃなくて、ミックスフルーツのままでかごに盛る必要があります。そこからぼくらは頭の中を自分で整理しなきゃいけないんです。」
混ぜてしまったほうが簡単に飲み込めるようなこととか考えやすくなることもあって、
もちろんそうしないと進めないような時だってあるとは思うけど、
でもやっぱり、どちらかというと、そうだからこそ、ひとつひとつをしっかり捉えていきたいと思った。
僕達はあらすじを語るために生きている訳ではなくて、
だからそこには本筋に関係ないような出来事もたくさんあって、
そしてそういうこと全部を含めての物語があって。
きっとそういう物語を面倒くさがらずに一文字一文字読み進めたその先に、
僕がつかまえたいと思っている読後感はあるんじゃないかなって。
枝の先に花が咲く、みたいな、そんなイメージ。
日常という光源があって、それを感じ取る自分という観測者がいる。
だからあとはプリズムとなる水滴があれば、その光をカラフルな虹として僕らは見ることができるんだけれど。
その水滴を準備するのは、すごく簡単なことなんじゃないかな。
だって、地球上の表面積の70%は水って習ったしな。