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それぞれの素敵な家を。
出国390日目。
32ヵ国目ボリビアのコパカバーナにいます。
と、この写真は5年前。2009年。
卒業旅行で僕は、マチュピチュとウユニに来ていて。
その途中で立ち寄ったこの町にすごく惹かれた。
そして、再訪。これが2014年の写真。
変わったとか変わってないとかは分からないけど、
それでもぐっと胸の奥をつかまれるような気持ちになることはあって、
その気持ちに「懐かしい」とふりがなをうって、ひとまず飲み込みながらの3日間。
2009年のコパカバーナと2014年のコパカバーナ。
あの頃仲間に入れてもらった寂れたサッカーコートはもうなくて、
今は新しい綺麗なフットサルコートが出来ていた。
あの頃泊まった宿にもいってみたけれど、今は営業していなくて、
だから、なんとなくそこから一番近い宿に泊まった。
あの頃にはなかった体育館ができていて、
23時頃までそこには子供達が遊んでいる音が聞こえていた。
2009年の僕と2014年の僕。
僕の目にこの町の変化が映っているように、
この町にもあの頃の僕と今の僕の変化が映っているのかな。
フットサルコートのように新しく何かを手に入れていたり
営業を辞めた宿みたいに、あの頃あったものがなくなっていたり
体育館で子供が遊ぶ音のように、新しい響きを手にしていたり。
僕は、どんなふうに変わったのだろう。
きっと町を歩きながら心が少し揺れたのは、
懐かしかったからなんかじゃなくて、
この町の変わっているところ、変わっていないところを見て感じた、
自分の変わったところ、変わっていないところ、
その両方への不安からなんじゃないかなと思う。
2009年の日記をふと読み返す。
“あいもかわらず感じるのは、余地の多さで。
笑ったり、泣いたり、怒ったりする余地も。
描いたり、奏でたり、踊ったり。
かけぬけたり、立ち止まったりする余地も。
疑う余地も信じる余地もたくさんあって。
それぞれが、それぞれに。
それぞれの空間を作り上げればいいと思う。
余地が英語でroomなのも、ほんとよくできてるなーって思う。
それぞれが、それぞれに。
それぞれの素敵な家を。”
笑ったり泣いたり怒ったり描いたり奏でたり。
繰り返しながら、やっぱり僕は生きていて。
踊ったりかけぬけたり立ち止まったり疑ったり信じたり。
繰り返しながら、やっぱり僕は生きていく。
いつまでたってもこの余地が埋まることはなくて、
それでもこの5年間という時間を経て、きっとその部屋にはいろんなものが増えていて。
変わるっていうのは、
部屋にあたらしい花瓶を買うとか、
カーテンの色を変えるとか、
模様替えをするとか、
なんとなく、そういうことなんじゃないかなって思う。
いつでもそこには部屋があって、
そこでの過ごし方が変わる、そんな感じなんじゃないかな。
ひとつ思うのは、この5年が少しでもその空間を心地よく彩っていてほしいということ。
前よりものが増えたその部屋が、少しでも居心地のいい部屋であってほしいということ。
そこにある余地を存分に楽しめるような、そんな風な人になりたい。
まだまだ、笑いたくて泣きたくて怒りたくて。
まだまだ、疑いたくて信じたくて。
まだまだ、繰り返したくて。
町の景色は少し変わっていたけど、
あの頃のままの、町を見渡せる丘があって、湖があって、そこに乱雑にとめられたミニチュアみたいな船があって。
笑いかければ近寄ってくる子供がいて、丁寧に町を説明してくれる大人がいて、穏やかな空気が流れていて。
だから僕は居心地のいいこの町がやっぱり好き。
同じように、居心地のいい部屋が僕の中にもあってほしい。
笑って泣いて怒って、描いて奏でて踊って、かけぬけて立ち止まって、疑って信じて。
変わらずに変わって。
いろんな部屋に出入りしながら、その家での生活を存分に楽しめるような。
そんな風な部屋がいい。
そんな風に生きていきたい。
6088m登頂。モノクロでカラフル。
出国382日目。
32ヵ国目ボリビアのラパスにいます。
6088mの雪山登山。
ワイナポトシに登ってきました。
はじめに断っておくと、
僕は、山登りが好きなわけではなくて。
一応、富士山は登ったことあるけど、くらいの感じで生きてきて、
なにがどうなったか、キリマンジャロに挑戦したのが去年の12月。
吐きそうな思いをしながら登った、
その山頂にはこれまでに味わったことのない達成感があったけど、
それでもだからといって、これからも登山していこう、なんて思った訳ではなくて。
でも、やっぱり、ワイナポトシは登らないといけない気がして。
もちろん、6000m越えにわくわくしたからってのはひとつの理由ねんけど、なんていうか。
「積み上げてきたもので
勝負しても勝てねぇよ
積み上げてきたものと
勝負しなきゃ勝てねえよ」
オールドルーキー / 竹原ピストル
どっちかっていうと、こっちの理由のほうが大きいかな。
キリマンジャロに登ったことでなんか満足してる自分がいて、
たいして山のことも知らないくせに、
5895m、アフリカ大陸最高峰登ったからもういやろみたいな、
そんな甘えた思考を、バシンと叩くのが、きっと今の僕の役目。
「これまで」を越えれないような「これから」はやっぱり面白くないと思うねんな。
と、いうわけで、
2泊3日でのワイナポトシへのチャレンジ。
1日目は氷河の上で、
アイゼン(靴の裏につける針みたいなやつ)の付け方、歩き方。
ピッケル(氷に刺さすつるはしみたいなやつ)をつかった雪壁の登り方とかの練習。
アイゼンはまだわかるとして、ピッケルを使った雪壁登る練習ってなに。どんなとこいくの。
みたいな不安をみんな口には出さず、夜は暖炉を囲んでおしゃべりおしゃべり。
2日目は昼過ぎにコテージ(4700m)をでてベースキャンプ(5300m)まで岩山登山。
この時点では、まだウクレレを弾けるくらい元気。
夕食時にキリマンジャロの時と同じように、登頂アタックの説明を受ける。
今から仮眠をとって、夜中1時くらいに出発ね。
ガイドひとりにつき2人がザイルで繋がって歩くよ。
そうそう、寒さの対策しっかりね。
みたいなそんな感じ。
で、いよいよ。
am1:00 5300m
出発。
月明かりで光る雪山はやっぱりきれいで、
アイゼンのおかげで一歩一歩しっかり進める。
一度経験したことのある高さっていうのもあって、落ち着いたスタート。
やっぱり何でも経験しておくって大事やなーと思いながら、
この時はこれから向かう6088mの高さにただただわくわくしてた。
am3:00 5600m
しんどいしんどいしんどい。
順調なスタートから一転、これまでに味わった頃のないくらいの頭痛と吐き気を振り切るように歩く。
あれ、キリマンジャロんときってこんなしんどかったっけって思いながら、
しんどいって口に出しても白い息となって消えてくだけって事に気づいて、
もうこうなったら、比べるのも嘆くのもやめて、現状をどんと受け入れる作戦に変更。
6088mまで登らな終わらへんってことだけは間違いなくて、
ここで諦める気もさらさらないってことを自分の中で確認した後は、
水を飲んで、深呼吸して、目の前の景色にだけ意識を集中させる。
しんどいのも、頭痛いのも、吐きそうなのも、全部どんと背負い込んで歩く、そんな時間帯。
モハメッド・アリの言葉をかりるなら、
「わざとボディを打たせるんだ。打たせたボディは痛くない。」そんな感じ。
am4:30 5800m
ふと体が軽くなる。
雪山に体がなれてきたのか、全部を背負い込む作戦が成功したのかはわからないけど、
まだまだ歩ける、なんなら走れる、そんな気分になって。
この感じが続けばきっと登頂できるんやろなって思って、それがまた力になる、そんなプラスの流れにストンと乗り込む。
月がきれいで、その月に照らされる雪面に、アイゼンの音と自分の呼吸が溶けていく。
いろんなものを吸収しながら、それでも白く輝く雪のすごさに、すこし憧れる。
am5:30 6000m
山頂まで100mをきったくらいから、一歩一歩が、また重くなりだす。やっぱり6000mは手強い。
もうすこしゆっくり、と思っても、今回は3人がザイルで繋がっている状態。
しかたなく、無理してスピードをあわせて歩く、そんな時間帯。
と、ここで気づいたのは、思ってたより辛くない、っていうこと。
ゆっくり歩けば進める、これはキリマンジャロの経験から知っていること。
でも、自分が思うゆっくりよりも少し早い今のスピードでも、問題がなさそうで。
無理をするのがいいこと、ってわけではないけど、
それでも、自分でひいている勝手な限界線は、大抵手前にあることを再確認。
am6:00 6088m
最後の100mくらいは、ほんとに人ひとりがぎりぎり歩けるような幅の道。
もうこの時は、疲れたとか頭が痛いとか吐きそうとかそんな感情はどこかへいってしまっていて、
ただただ足元を、その両サイドの崖を、前を歩くパートナーを、その先にみえる山頂を、
順番に見ながら歩いていた。
6088mに辿り着くまで終わらない、と思いながら歩いていた時間帯から3時間。
一秒でも早く辿り着きたいけれど、もう少し続いてもいいなと思う気持ちもあって。
簡単に終わらせるにはもったいないような、景色と感情。
せめてもと目に焼き付けながら、心に染み渡らせながら、歩く。
そして、登頂。6088m。
気がつけば両腕は空に伸びて、ガッツポーズ。パートナーとガイドとハイタッチ。
やっぱりこの瞬間はたまらなく好き。
登ってよかった。
山が好きってこういうことか、ってのが少し分かったかもしれない。
ってのは、キリマンジャロのときと同じ結論。
でもほんとうに登ってよかった。
もう一度言っておくと、
僕は、山登りが好きなわけではない。
しんどいの苦手やし。登ったら降りなあかんし。
それでもやっぱり、あの山頂での感覚はたまらなく大好き。
あの景色も、あの感情も、思い出しただけですこし震える。
音が消える雪山を、色が消える夜に登る。
なにも聞こえなくてなにも見えなくて、
だからこそ、そこにある世界はきれいな和音のように広がる。
雪山登山はやっぱり、モノクロでカラフル。
さてさて、5895m に続いて6088mも登頂成功。
もちろん、調子に乗る気なんてさらさらないけど。
越えれるもんなら越えてみろよ、と、これからの僕を見る。
「これから」に簡単に越えれるような「これまで」を積み重ねてるつもりはないから。
楽しみが、またひとつ増える。
負けるなよー、これからの僕。
出国365日目、嘘でもいい日に思うこと。
出国365日目。
イースター島でゆるりとすごしていました。
いつかは行きたいなと思いながら、
行くことはないんやろなと思っていた場所。
ショートケーキの苺を食べるときにすこし似た、
嬉しさと悲しさが混じったような感情を、
ショートケーキの苺を食べるときのように、
ゆっくり味わいながら、この1年を振り返り。
右も左もわからないまま、そんな時はとりあえず前への姿勢でスタートしたのはタイのバンコク。
アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、南米と、ぐんぐん進んで、気づけば31ヵ国。
世界はほんとに広くて、どこまでいっても果てしなくて
どれだけ国境を越えても広がらない視野に嫌気がさしながら、
いつになっても広い世界すべてを見ることも、聞くことも、
もちろん、動かすことなんてまるでできない。
なんて、思わずにはいれなかったけど。
もしかしたらちょっと違うのかなって思えるようになったのは、
ふたつのことに気づいたから。
ひとつめは、僕らは見えないものを見ることが出来るということ。
確かに世界全てを実際に見ることはできないけれど、
それを補うように、僕らには想像することができて。
時計の針を見て、終電がなくなったことを知るように、
階段の音を聞いて、だれかの帰宅に気づくように、
桜のほころびに、春の訪れを感じるように、
僕らは見えないものを見る手段をもっていて。
ちいさい頃、サンタクロースを信じていたのだって、
サンタクロースに会ったことがあるからじゃなくて、
クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置いてあったからなんじゃないかな。
その想像の種となるその目の前の世界に働きかけることくらいは僕らにもできて、
そうすることで僕らは想像したい世界の種を、そしてそこから広がる世界を、作ることが出来るんじゃないかなと思う。
アンラッキーのあとにラッキーがある世界が好きなら
アンラッキーのあとにラッキーを作ればいい。
家族が笑っている世界がいいなら、
手紙を書けばいいし電話をかければいい。誕生日にプレゼントを贈ればいい。
世界中の子供が学べる世界をつくりたいなら、
例えばカンボジアの学校建設に関わることだってできる。
そうやって手の届く範囲の世界を変えることで、
少なくとも自分の中に広がる世界は動かせると思う。
そして、もうひとつ。
僕の見ている世界は、他の誰かの見ている世界につながっているということ。
目の前の世界に働きかけることで色付くのは確かに自分の世界だけかもしれないけれど。
そんな自分勝手なペイントのなかで、誰かの世界にも色は撥ね、飛び散る。
星を見るために天体望遠鏡を持って歩く僕の姿を見た誰かが流星群の存在に気づくよな、そんなイメージ。
さらに、もっと積極的に彩ることだって可能で。
例えば、自分の前に流れている川にそっと灯籠を流して、
誰かの世界に少しあかりを灯す、そんなことだってできる。
世界をがらりと変えるには、確かに僕はあまりに無力で。
でも、だから仕方ないよと自分の周りだけを世界から切り離すなんてことはできなくて。
じゃあ今は信じてみるのはどうかなって思う。
目の前の世界を変えることが、僕の中の世界を作るということ。
その中で飛び散った絵の具が、つながっている誰かの世界も彩るかもしれないということ。
僕は誰かが笑っているときの空気が好きで、友達が好き。
人間らしさに溢れる人が好きで、楽しい毎日が好き。
そういうものが溢れる世界がいい。
春風が吹くような、そんな景色がいい。
だからまずは、目の前の世界に、種を蒔いてみようと思う。
いつかその花が世界に広がって、誰かの世界にも春を知らせることができれば。
うん、やっぱり嬉しいかな。
そんなことは無理かもしれないし、現実的じゃないかもしれない。
でもこの世界は、絶対行けないと思っていたイースター島にもこれるようなそんな世界。
だからとりあえず僕は、こんな嘘みたいな理想論を、嘘だとしても振りかざしていこうと思う。
そんな今日は、4月1日。嘘でもいい日。